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カテゴリ:Θ 自伝( 5 )

711 ②

こんばんわ、どうもyoruです。
前回から6日ぶりに、こうしてパソコンの前に座っております。
メールしてくださった方々、コメント頂いた方々には、返信が送れたことをこの場をお借りいたしましてお詫び申し上げます。



すんまへん。



いやいや、冗談です。
ほんとうに申し訳ない気持ちです。
お気づかい、ほんとうにありがとうございました。
感謝。


さて、それでは前回のつづきへと移ります。
どんな内容になるのかはわかりませんが、すべて私の正直な気持ちです。
それでは、よろしければどうぞお付き合いくださいませ。







7月13日 お葬式

気がつくと、早朝6時。
式場の後ろにあるソファーで目が覚めました。
ほんとは寝ないつもりだったのですが、どうやら眠っていたみたいです。

思えばガキの頃も、夏休みの時など親戚の家に泊まりにいったりしたときは、
「言っとくけど、今日は俺寝やんで。」
とか言いながら、まっ先に寝ていました。
私は、そういう意味ではガキの頃とあまり変っていませんね。



目覚めても、やはり目の前には祭壇があり、おかんの遺影写真もありました。
普段、夢の中でなにか嫌なことがあると、

「あー、もーいい、もーいい。」

と、現実逃避をこころみると、私は嫌な夢から抜け出すことができます。
しかし、私の気持ちとは裏腹に今回ばかりはそうはいきませんでした。
世の中、そう都合よくはいきませんよね。



私は普段、低血圧のせいもあり、朝はシャワーを浴びないことには脳みそが起きてくれません。
式場から私の自宅までは歩いて30秒ぐらいの距離ですので、一度家へシャワーを浴びに帰ることに。

普段となにも変らない自宅。
いつものようにシャワーを浴びていると、ほんの一瞬、まるで何事もなかったかのような錯覚に陥(おちい)ります。



ええかげんにせえよボケ。
シャンプーと一緒に、弱い心も洗い流そう。




シャワーを終えると、すぐに礼服に着替え式場へと戻りました。
兄の子や私の子供達もすでに起きていて、早朝から賑やかな光景でした。


おかんには孫が7人おります。
この孫達が全員そろうのは、年に1回あるかないかです。
約1年ぶりの全員集合ということで、子供達は早朝から楽しそうに遊んでおりました。

おかんの祭壇の前で走り回る子供達。
その輪の中には、1歳からおかんと一緒に暮らしていた次男の10歳になる娘の姿も。

二十年ほど前の同じような光景を思い出しました。
私のばぁちゃんが亡くなったあの日。
同じように、祭壇の前ではしゃぐ子供達の姿。
その中には私の姿もありました。
生後約半年ほどから、親元から離れ祖母と伯母に育てられた私。
「死」という感覚がまったくなかったあの頃。
次男の娘をあの頃の自分と照らし合わせながら見つめておりました。



親戚のおばさん達が用意してくれた朝食を食べながら、別室で香典の整理とその記帳。
それがひと段落すると、次に祭壇費用や経費の計算。


しばらくすると、次男が部屋に入ってきました。
手にはカセットテープ。

「これ今日の葬式で流してもらってくれへんか?」

兄と式場へいき、設置されてあるカセットデッキにテープを差し込みました。
おかんが歌っていました。
BEGINの「涙そうそう」

式場のイスに腰掛け、おかんの遺影写真を見ながら最後まで聞きました。
感情の欠落?
やはりなにも感じませんでした。

その横で、次男は30本以上あるカセットテープの整理をしていました。
私はその中の1本を手に取り、カセットデッキで聞いてみました。

聞きなれない女性の歌声。
少し早送りし、また再生。
また違う年配の女性の歌声。
違うテープを入れてみる。
こんどは男性の歌声。

「なにこれ?」
次男に聞く。

「おかん、仲のえぇ友達とかとカラオケいったらこうやってテープに録音しとってん」
初耳。
つか、始めに次男から預かったテープはおかんオンリー。


こいつ‥ 徹夜で編集しやがったな。
人には「寝ろ」ゆーたクセして。

こういう兄です。




時計を見ると午前10時20分。
いつの間にか、お葬式の時間も近づいてきておりました。
開式時刻は11時。
10時30分には、親族は式場に座っといてほしいとの事。

慌てて控え室にいた親族に式場へ移動してもらい、なんとか時間内に全員着席。
そして司会者から本日の式次第の説明。
私が普段から親しくしている、先輩の社員さんが司会進行係でした。

開式前に先輩からの一言
「開式前の説明の時、たのむから下向いといて」

いくら先輩でも、そりゃ緊張するわなぁ。
私も同じ立場なら同じこと言うと思います。



なんとか無事説明も終わり、開式まで約10分。
まだ少し時間があったため、となりに座っていたおとんを誘い喫煙所へ。
「まだ時間あるから、タバコ吸っとき」

タバコを吸い終わると、おとんが言いました。
「お腹痛い。」
まじっすか。

「いやいや、もう始まるで。 大丈夫かよおとん。」
おとんの返事は、

「無理。 家帰って正露丸とってきて。」
おいおいおい。
時計を見ると、開式5分前。
「わかった、ちょっと待っときや。(汗」

そう言うと同時に自宅までダッシュ。
「こんな時になに言うとんねん、あのハゲ親父はっ」
とかブツブツ言いながらも全力疾走。
ギリギリで開式に間に合い、式場のとなりにある台所でおとんに正露丸を飲ませる。

なんだかんだ言いつつ、私も飲みましたが。
実は私もお腹の調子が良くなかったのです。(苦笑



いよいよ開式。
司会者の
「それでは導師様、ご入場でございます」
の言葉の後、導師入場。 そして着座。

司会者の開式の言葉。
そして全員で合掌、礼拝(らいはい)。

礼拝の後、顔をあげるとおかんの遺影写真がまず目にはいりました。
呆然と見つめる。

おかんが死んでから、心の中で何度もつぶやいた言葉。
「おかん死んだん?」

同じ言葉を、今度は隣に座っている嫁に言おうとしました。
私は人と話すとき、まず心の中で言おうとする言葉を反復するクセがあります。

「おかん死んだん?」

そう心の中でつぶやいた瞬間、私の目から大粒の涙がでました。
一瞬わけがわからない。
「え?」
と思ったのもつかの間、次の瞬間にはボロボロと涙が溢れてくる。
これまでなんの感情も湧かなかった。
しかし、この時は無性に悲しかったし、なにより寂しかった。

「あぁ、おかん死んだんや」

この時になり、ようやく理解できました。
鈍すぎる感情。
愚か。

これまで29年間生きてきて、味わったことのない感覚。
とにかく、自分の体の震えを抑えることができず、体に力が入らない。
情けなくなるくらいの脱力。
涙も止まらないし、もう最低。

それでも時間は待ってくれず、お葬式は着々と進行していく。
気がつくと、親族焼香の案内。
まずは喪主である、おとんが焼香。
開式前には、
「今日はおかぁちゃんと最後のお別れの日やから、俺は泣かんと笑って見送ったる」
と言っていたおとんではあったが、号泣している。
そして、そのまま祭壇前の焼香所へ。
次に長男、そして次男と焼香が進んでいく。

涙がとまらず、案内の声だけしか聞こえていなかったので、兄達の表情は見えませんでした。
そして私の焼香の番。
涙をこらえ、凛(りん)とした姿勢でおかんに焼香してあげたかったのですが、最後まで私はできの悪い息子で、溢れる感情を抑えることができませんでした。

親族の焼香が終ると、つづいて参列者の方の焼香。
おとんと兄達、そして私は、焼香所の近くに並び、焼香してくださった皆様へ一人一人一礼。
無礼な事に、私は会葬者の方々の顔を直視することができす、だれが来てくれたのかは後になり会葬者の方々が記帳してくれた帳面を見て確認いたしました。


さらに時間が進み、読経も終わり導師退席。
いよいよ、おかんともお別れの時。

出棺前にもう一度棺のフタを開け、みんなで切花を入れてあげました。
生前となにひとつ変わらないおかんの顔。
私は職業柄、色んな人の亡くなった時の顔を見てきましたが、その中でもおかんの顔はとても綺麗でした。
「眠っている様」
とよく言いますが、まさにその表現が的確です。



この時の私は‥、
そして兄達やおとんはどんな感じだったかな。

あまり詳しくは思い出せませんが、私はとても冷静でした。
おかんの顔の横にお花を置いてあげたのは覚えております。
おとんはずっとおかんから一歩離れたところで泣いておりました。
兄達は、花を一輪だけいれると少し離れてその様子を見ていたと思います。
二人とも、かなり眉間にシワをよせていました。

私もそうしてしまいましたが、なぜ日本人はこういう時でも感情を抑えようとするのでしょうか。
日本の文化の中での独特の美学なんでしょうね。
皆様は、心のどこかで涙を「恥」と捉えてはいませんか。
私には、どうやらそういう気持ちがあるようです。
そのような感覚には、少し寂しい気もしますが。


時には感情をむき出しに。
またひとつ勉強になりました。



おかんとのお別れも終え、いよいよ出棺の時。

今回借りた葬儀式場は3階建ての建物。
3階が葬儀式場。
2階が親族控え室。
そして、1階が火葬場。

エレベーターで、私達家族と共におかんは1階の火葬場まで降りました。
火葬炉の前で、もう一度導師に短いお経をあげてもらいながら、親族全員で最後の焼香。


全員の焼香が終わり、とうとうおかんは火葬炉へ。
不思議と私は落ち着いておりました。
1時間前のあの感情はいったいなんだったのだろう。



前にも書いた事があるかもしれませんが、私は前世だとか、生まれ変わりだとか、いわゆる輪廻転生、その他、一切の宗教的考えを否定します。
それは、おかんに対しても同じ気持ち。
おかんは死んだ時点で無になったと思っております。
あの世で楽しくしているだろうとか、私を見守ってくれているだろうとかの考えは一切持っておりません。

だから私は悲しいのであり、もっともっと親孝行をしようと思うのです。
罰当たりな考え方かもしれませんが、それが私の正直な気持ちです。

輪廻転生。
おかんが病気になる前は、酒を飲みながらよくこの話をしました。
おかんは超信じる派。
だからおかんは、私の考え方を酒のアテにしながら楽しそうに飲んでました。
おかんは、かなりの「語り酒」だったもんで。
ちなみに私も「語り酒」かもしれません。
つか、遺伝かよ。



火葬場の職員の案内で、お骨上げ(収骨)は2時間後との事。
それまで、親戚の方々には2階の控え室にて「精進落とし」の膳を食べてもらいました。


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※「精進落とし」
ついでなので、少しだけ説明します。
まずその名の由来ですが、かつて遺族は忌明け(四十九日)までは、肉や魚、いわゆる「なまぐさもの」を絶ち精進料理を食べる習慣がありました。
そして、忌明け後に通常の食生活に戻る区切り的な意味合いで、「精進落とし」または「精進上げ」と呼ばれる、肉や魚を使った料理を食べる。
しかし、今ではこのような習慣はほとんどなくなり、お葬式が終った後に、お世話を頂いた方や、親しくしていた友人や知人、親戚などを交え、「ありがとうございました」という労いの意味、また、感謝の気持ちをこめて「精進落とし」の膳を召し上がってもらう風習に変わってきているというのが現状です。

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午後2時30分。
お骨上げ。

変わり果てた姿。
おかんの残骸。
次男の娘が、この時初めて泣いておりました。
なにも言ってやる事ができませんでした。
なにを言っても、今の彼女の心境に比べれば私の言葉は軽くなると思ったから。

臆病者の自分。
理屈じゃないと分かっていても、理屈を考える。
私は子供相手になにを恐れてる?



苦悩する私の前で、私の娘が次男の娘の手を握り、次男の娘が握り返す。
涙がでました。
悲しい涙ではない。
私は理屈で行動し、子供は理屈抜きで行動する。
simpleでいてpowerful。

こんな簡単なことなんだ。
子供は無意識に理解しており、大人の私は理解していなかった。
涙の意味は、自分に対する怒りなのか。
馬鹿なので、なんと表現していいのか分かりません。



最後に、おとんはおかんの骨を食べました。
こうして、おかんのお骨上げが終了。
続いて、2階の親族控え室にて初七日法要も一緒に行いました。


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※「初七日法要」
本来なら、亡くなった日から1週間後に行うのが正式なやり方なのですが、また親戚に集まってもらう事などを考えると大変なので、最近ではお葬式の当日に行うのが通例になっております。

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2階で初七日法要が始まっている頃、部屋には私と兄達の姿はありませんでした。

通常は、お骨上げの際、すべての骨を残さず拾うという事はいたしません。
骨壷の大きさの関係もあり、すべては拾わず、まず喉仏を別の小さな骨壷に収め、それから体の部分部分の骨を足元の骨から少しづつ順番に大きな骨壷に入れていきます。
そして、残りの骨は通常、お骨上げが終ってから火葬場の職員の手で「納骨堂」と呼ばれる大きな「供養塔」に入れてもらいます。


しかし、兄達の希望もあり、私は事前に火葬場の職員にお願いし残りの骨を収骨する準備をしていました。
もちろんすべてではありません。
小さな骨箱に少しだけ。
おかんの骨を墓に入れてあげるまで、数ヶ月は自宅でおかんの骨を安置いたします。
兄達も、その数ヶ月間はおかんと一緒にいたいと希望していたので、こういう形になりました。
私も、小さな骨をひとつハンカチで包みました。


おとんはこの事に対して反対していました。
おかんが「成仏できない」という感覚なのでしょう。
おとんの気持ちは十分理解できましたが、私は兄達の気持ちを優先しました。
後になってからでは、どうにもできない事でしたので。



その後、兄達と共に2階へ上がり初七日法要に参加いたしました。
30分後、この日のすべての儀式が終了いたしました。

集まってもらった親戚、知人、友人などにお礼を言い、ここで解散。
振り返ると、なんだかとても長かった3日間のように感じました。


私の職業は葬儀屋。
立場が変わり、気づいた事がほんとうに山ほどあった3日間でした。
今後はもう少し初心に戻り、仕事をしていく必要があるようです。
いつの間にか私は、お世話をする家の人の気持ちを無視して仕事をしていたと思います。
かと言って、そればかり重視するわけにもいかないのですが。
何事にもバランスが大事ですね。







ふぅ。
また長々と書いてしまいましたね。
最後までお付き合いくださった皆様に、改めてお礼申し上げます。
ありがとうございました。

現在の私は、職場にも復帰しており、先日はお通夜も霊柩車も担当してきました。
ただ、これから仕事をするうえで、どうしても気持ちのスイッチを入れ替える必要がり、悩んだあげく私が出した決断は、坊主頭です。(笑
会う人会う人に驚かれ、そのつど理由を尋ねられるのが面倒くさく思う毎日です。

「夏ですから。」

いったい私は、この言葉をあと何回言うのでしょうか。(笑
それでは長くなりましたので、今日はこのへんで。
どうもおつかれさまでした。

平成18年 7月24日 午前0時35分 yorupe
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by yorupe | 2006-07-24 00:37 | Θ 自伝

711 ①

どうもご無沙汰してます。

さて、なにから書いていいのやら。
さきほど、5日ぶりに自宅へ帰ってきました。

ここ数日間、色々なことがありました。
正直、まだ自分の中で整理しきれてない部分が沢山あり、心境は複雑です。
今回は誰に対するメッセージでもなく、あくまで自分自身の気持ちの整理のためのblogです。
私は、ここで無理やりにでも心に区切りをつけないことには前に進むことができません。

そして今回、お世話になったすべての方々へ心よりお礼申し上げます。
ほんとうにありがとうございました。




7月11日
いつものように、仕事をしていました。
ここ最近、仕事が忙しく、慌ただしい毎日です。
同じくこの日も忙しい日でした。

この日の午前中は何をしていたんだろう。


そうそう、午前中はお葬式が一件あり、私は霊柩車の運転をしていたと思います。
午後からは、また別の家でご不幸があり、となり町の山奥にある市営斎場(兼式場)で喪家の通夜・葬儀の為の飾りつけ(祭壇設置など)をしておりました。

ここの斎場は、ひとつだけ難点があり、携帯電話の電波がまったく入りません。
式場から一歩外に出れば問題なく使えるのですが、式場内ではまったく使い物になりません。

さきほども書いたように、私はこの日の午前中は出棺(お葬式)があったため霊柩車に乗務しており、午後からの飾りつけの式場には、そのまま霊柩車で来ておりました。
この斎場での飾りつけがひと段落したのが、午後3時頃。
一度霊柩車を本社の車庫に戻そうと思い、同時刻に斎場を出発いたしました。

斎場を出発し、5分後ぐらいだったかな。
携帯電話が鳴りました。

聞きなれない着メロ。

仕事上、音で大体だれだかわかるように一応分けているんですね。
「‥この着メロだれやったかなぁ??」
携帯を開いてみると、画面には義姉の名前。
義姉から私に電話がかかってくるという事はめったになく、「どうしたんやろう??」と少し戸惑いながら電話にでてみると、普段とは明らかに違う姉の声。

「なんなん、ねぇちゃんどうしたん?」
私の心臓は大きく一度、ドクンと鳴りました。
少し間をおき、聞き取りにくいほどの小さな声で、

「あんなぁ‥、おかあちゃん心臓停止で救急車で運ばれてん。」

「はぁ!?」
言葉の意味どころか、その言われた言葉そのものを私は理解することができませんでした。

「‥とりあえず、あんたすぐ○○病院にいったって」
「わかった‥、うん、いくわ」
そう言って電話を切ってはみたものの、悲しいかな頭がまったく働きませんでした。


私も、私の家族も覚悟はできていました。
そして、恐らくおかん自身も。
しかしこの後、私達家族の覚悟がいかにちっぽけだっかかを思い知らされる事になりました。



おかんは癌でした。
発見は2年前。
喉に違和感があると言い出し、市内の病院で診てもらう事に。
何日もかけ色々調べてもらい、最終的に担当医から聞かされた検査結果は「リンパ節癌」。
発見が早期だった為、転移はしておりませんでした。

「手術したら治る」

そう思っていましたが、神経が密集する繊細な場所に癌ができていました。
それでもおとんは諦めることなく、かなりの数の病院に診断書とレントゲン写真を持って行きお願いしましたが(手術を)、どの病院でも最終的に返答は同じ。

「繊細な場所なので手術はできません」

おかんに残された道は、抗がん剤と放射線治療でした。
この時点で本人に告知。
本人への告知なしではできない治療ですし、なにより昔から、おかん自身の口癖でした。

「もしおかぁちゃんが癌になったら、告知してくれやな絶対いらんで!」

こうして、おかんの2年以上に及ぶ治療が始まりました。



約4ヶ月間、市内の病院で、抗がん剤、放射線治療などをしてもらいましたが、それでも癌はいっこうに小さくならず、おかんとの相談の結果、県内でも有名な大きな病院へ転院。
この時は、とても病人とは思えないほど元気でした。

しかし、徐々にではありますが癌は確実に進行していき、それを抑えようとする抗がん剤、放射線治療の影響でおかんの体は日増しにダメージを受けておりました。
癌発見から、8ヵ月後。
ついに担当医から私達家族へ、おかんの余命宣告。

「‥もってあと半年です。」

この時点で、確かにおかんは少し辛そうではありましたが、それでも見た目はとても余命宣告を受けた人間には見えませんでした。
私達家族にはまったくそういった実感が持てず、担当医の説明を理解するのに苦しみました。

ここからおかんの容態は急激に悪化していき、ついに担当医からも
「もうこれ以上の治療はうちの病院ではできません」という説明。
それを聞かされたおとんは、とても感情的になってしまい、間違ってると分かりながらも担当医にキレました。

この時、おかんに残された選択肢は2つ。
・抗がん剤は体にかかる負担があまりにも大きい為、これまでの「癌の進行を抑える治療」から、「痛みを和らげる治療」に切り替え、その時を待つ。
・別の病院へ転院し、これまでよりきつい抗がん剤治療に変え、わずかな希望に賭けてみる。


「どう生きるのか」という究極の選択。
おかんは、悩んだ結果「闘う」ほうを選びました。



いつだったか、おかんに理由を尋ねたことがあります。
おかんらしい答えでした。
「だっておとうちゃん、おかん死んでから後悔するやろ。 せやからおとうちゃんが納得するまでとことんしたらええねん。」
ズバリでした。
しかし、おかんにとっては肉体的にとても辛い選択となりました。

これまでの抗がん剤より、さらにキツい抗がん剤に変え、体はボロボロ。
女性の命でもあろう髪の毛もすべて抜け、肌も水分がなくなりつねに乾燥しきっておりました。
食事は一切できず、必要な栄養はすべてお腹のチューブから注入。

この治療を始めて、「余命半年」と言われた悪夢の日から1年ほどたちました。
おかんがこの治療に対し、これだけの代償を払っているのだから、当然といえば当然の結果なのかもしれません。
それでもおとんには確実に、この時「もしかしたら」という微かな希望が見えておりました。


通常はどういうやり方かはわかりませんが、おかんが行なっていた1回にかかる抗がん剤治療の日数は、わずか1日。
抗がん剤を投与し、約1週間は病院での生活。
なぜなら、とても3,4日は動ける状態じゃないし、投与後のこの期間はおかんにとって、とても辛い、そして地獄のような日々だったと思います。
しかし、投与から1週間ほどたつと徐々に体力も体調も回復し、医者の診察の結果「OK」がでれば、その日から約1ヶ月間は一時退院し、家ですごします。

この病院での抗がん剤治療も、やり始めは辛そうながらもまだまだぜんぜん元気でした。
帰宅中は、帽子をかぶり自転車で買い物に出かけることもしばしば。
しかし、3度目、4度目になると抗がん剤もだんだんキツくなっていき、おかんは口には出しませんでしたが体にかかる負担もそうとうなものだったと思います。
帰宅中も、「おかん専用」の大きなソファーから動く事もだんだん少なくなっていき、5月からは、トイレ以外はほとんどソファーで横になっておりました。
放射線とリンパ節癌の影響で、声もほとんど発することができず、ほんとうにおかんにとって辛い毎日だったと思います。

そしてこの時、おかんがおとんに言った初めての弱音。
「もう治療やめたい」



この時から、すべての治療をストップ。
6月のことでした。
おかんはすでに覚悟していたでしょう。
恐らく、「自分の時間」もなんとなくわかっていたと思います。
ほかでもない、おかん自身の体のことですから。



そして、おかんの命日になった7月11日午後2時。
いつものように、お腹のチューブから栄養補給。
補給後、少しして嘔吐。
そして次の瞬間。
いつものソファーで大量に吐血。
おとんの目の前での出来事。
おとんは慌てて救急車を呼びましだが、おかんはおとんに抱かれたまま静かに逝きました。

58歳でした。





今になり、おとんも私達家族も、おかんに比べ「覚悟」がまったく甘かったと知りました。
おかんが亡くなったと聞いた時、私は一切理解することができませんでした。
おとんも「まさか」という部分が強かったらしく、かなり取り乱しておりました。
私の兄達や、その家族も同様に現実を受けいることができず、ただただ呆然としておりました。


しかし、確実に言えることはひとつ。
私はどうしようもない大馬鹿野郎という事です。

私がおかんに最後に会ったのは、たぶん2週間以上前。
「たぶん」のうえ、その時かわした会話さえも覚えておりません。
最低の最低。
私が自宅でパソコンをしている時、仕事終わりに飲みにいってる時、パチンコに興じている時、家でゴロゴロしている時。
おかんの時間は刻一刻と減っていたのです。

愚かなほどの自覚のなさ。
哀れなほどの自覚のなさ。
悔いても、悔いても、キリがないぐらい。


私の職業は葬儀屋です。
おかんが亡くなってから、会社に迷惑をかける覚悟で、自社に葬儀を依頼しました。
そして当然のことながら、私がおとんや兄達家族、親戚になりかわり、通夜、葬儀における一切の「だんどり」を仕切ることになりました。

亡くなった11日は、実家で仮通夜をし、涙にくれるおとんや兄達を尻目に、式場の手配、火葬場の手続き、お寺の手配、など、ただひたすらに淡々と準備を進めていきました。
そして、あくる日の通夜の準備のため、一旦会社へ戻り、社長と祭壇などの打ち合わせ。


会社からの帰り道、国道を車で走っていると遠くのほうで花火が見えました。
花火のあがる方向へ車で近づくにつれ、それは隣町の小さなお祭りだとわかりました。
側道に車を停め、私は淡々と一定間隔で上がる打ち上げ花火を、呆然と車内で見ていました。

「おかん死んだん?」

考えても考えても、頭がいっこうに動こうとせず、花火だけが空しく上がっておりました。
「あかん、こんなん思ててもしゃない。 今はそれどころやないやろ?」
そう自分に言い聞かせ、家族、親戚の待つ、そして、おかんがいる実家へ戻りました。

この日の夜は、おとんと長男と次男と私、それとおかん。
いつ以来かわからないぐらい、20年以上ぶりに家族5人だけで一夜を過ごしました。
みんなで線香、蝋燭(ロウソク)を絶やさないように、朝まで火の番をしておりました。



7月12日 通夜当日
この日の午前中は、親戚などと一通り打ち合わせし、午後からは、上司や同僚の社員さん方が、おかんの祭壇を飾り付けに来てくれているので、私も式場へと急いで向かいました。
社長の厚意で、最小の予算にもかかわらず通常では考えられないほど立派な花祭壇を作っていただきました。
私のわがままで、おかんの好きだった「ユリ」と「かすみ草」を使った花祭壇です。
感謝の気持ちの表現がヘタなので、伝わらないかもしれませんが、 ‥うん、感謝なんです。


祭壇の飾り付けもすべて終ったのが午後4時過ぎ。
それから実家で、おかんを棺に収めていただきました。
先輩の社員さんが綿花(めんか)をつかった飾りつけで、おかんを綺麗に納棺してくれました。

そして、式場へおかんを運び、花祭壇の中央に棺を安置。
花畑の中で埋もれるように、おかんは棺の中で横たわっていました。


ここからは、時間が経つのを異常に早く感じ、あっという間に通夜の開式時刻。
最前列に私達家族が座り、気がつくと通夜式が始まっておりました。
導師のお経を聞きながら、祭壇の中央に設置されているおかんの遺影写真を呆然と眺める。
私の右隣ではおとんが涙をボロボロ流していました。
私の左側に座る嫁も、同じように泣いていました。
私は、やっぱり遺影写真を眺めていました。
花火の時と同じ気持ち。


「おかん死んだん?」



なんとも経験したことのない不思議な気持ちで、私は遺影写真を眺めていました。
悲しいとか、寂しいとか、そんな感情は一切沸かず、ただ呆然と。


気がつくと、私の焼香の番になっており、わけの解らぬまま通夜式は進行していきました。
おとん、兄達と共に弔問客に頭を下げ、時間だけが正確にすぎていきました。


通夜後は、親戚のみなさんに食事をしてもらい、合間をみつけては、あくる日の葬儀の打ち合わせや、親戚から頂いた香典などの計算。


ひと段落ついたのは、午後11時頃。
おかんのいる式場に戻り、最前列のイスに深く腰掛け遺影写真を眺めてみる。
やはり、なんの感情も湧いてこない。


おかんが生前、私に口すっぱく言っていた言葉が頭をよぎりました。


「おかんにもしものことがあっても、あんたがだんどりしたらあかんよ」
こうなることを知ってたんか、おかん。
せやけど、おかんは親戚にやってもらっても気つかうやろ?
俺がするほうが、あんたも気つかわんですむやん。

おかんの棺の前で、気がつくと30分ほど自問自答していました。


まだまだやることが残っていた為、親族用の控え室に戻ろうとした時、
ふと祭壇前を見ると、少し大きめの寿司桶(おけ)が棺の前に供えられておりました。


供えたのは、二番目の兄でした。


次男。
バツイチ。
9年前に離婚し、その時ひとり娘を引き取りました。
当時、娘は1歳。
男手ひとつで育てるのはさすがに無理があり、実家でおかんおとんと同居。
毎日のように、おかんやおとんと「子育て」の事で喧嘩ばかりしていました。
そして、おかんが亡くなる前日も、いつもとかわることなく。


そんな次男からの供え物。
二人前の寿司桶。

おかんは、リンパ節に癌ができていたため、生前一切の食事ができませんでした。
おかんもおとんも寿司が好きで、病気になる前はよく家族で知人が経営するお寿司屋さんに食べにいったりしていました。
おかんが病気になってから、おとんは
「おかんの病気が治るまではウマいもんは食わん。」
とか言い、わざと貧粗なものばかり食べてました。


そんなふたりの気持ちを察しての、次男からの供え物。
二人前の寿司桶。
兄なりに、色んな意味をこめてたんでしょうね。


兄は、うちの嫁に
「おとんに、おかんと食べるように言うといたって。」
とだけ言い、通夜が終るとひとりで実家に帰っていきました。


おとんは祭壇の前で、おかんと二人きりで寿司を食べていました。
おとんとおかん以外、だれもいない式場。
私はその光景を、式場の最後列のイスに密かに座り眺めておりました。

不思議と特別な感情は湧きませんでした。
けれど、自分はこの光景を生涯忘れないでしょう。


私はおとんに気づかれないように、そっと式場を出て喫煙所に。
喫煙所の窓からは、私の自宅が見えました。
私の自宅から、式場までは徒歩30秒。
いつも自宅から見えるこの式場の中に、まさか自分がこうしているとは。
この喫煙所の窓から、自分の家を見ている自分。
この状況も、悲しいかな私は理解することができませんでした。

この期におよんで現実逃避。
弱い心。
ふざけた野郎。
失礼な奴。





暗い階段から聞こえてくるヒールの音。
嫁でした。
私の隣のソファーに腰掛けました。
なぜか何年も会っていない感じがしました。
思わず、言った言葉が
「あぁ、久しぶり」
なんでやねん。 と即座に思いましたけど。


嫁は今まで、私の実家に着替えなどを取りに一度戻っていたらしい。
「お兄ちゃん(次男)、おかぁちゃんの写真みながらビール飲んでたわ。」
「‥‥ふーん。」
「‥泣いてやったわ。」

立派だと思いました。
兄なりに、懸命に現実を受け入れようとしていました。
今でこそ、おかんやおとんと喧嘩ばかりしていましたが、確実に兄弟で一番おかんっ子です。
悔いる部分が沢山ありすぎて、なにから整理していけばいいのか分からないのでしょうね。



複雑な胸中の中、
一度外の空気を吸いにいこうと思い、式場の正面玄関へといきました。
正面玄関の柱には、おかんの名前が書かれた大きな化粧板が立てられておりました。
その化粧版の下で、また煙草を吹かす。


ちょうど次男が車に乗って帰ってきました。
車から降りるなり、私になにか投げました。
実家の家の鍵でした。

兄は笑いながら
「おかんまだ家におるわ。 おまえ騙された思て、おかんのソファーでちょっと寝てきてみ。」

「はぁ? おるわけないやろ(笑」
だってそうやん。
しかし、兄は
「いやマジや。 おかんの声聞こえたからさっき。 つか、ええからはよいってこい。」


しかたなしに行くことに。
「そんなわけないやんけ、ほんまに‥」
心の中でそう思いながらも、少しは「もしかして」という気持ちもあったのも確かです。

鍵を開ける時、なぜか少し緊張しました。
だれもいない居間へといくと、テーブルの上にはおかんの写真が置いてありました。
写真の前には、兄が焼いたであろう玉子焼きの食べかけとおかんが使っていた愛用の箸。
そしてビールの空き缶が、8本ほど。

あいつなんぼ飲むねん。(汗


一応、兄の言いつけを守り、居間に置いてあるおかんの大きなソファーに寝転がってみる。
五分、10分、と時計の針が正確に時間を刻んでいきました。

「なんも聞こえへんやんけ。」
おもっくそひとり言。



目を開けて、時計を見ると深夜2時前でした。
実家にきたのは確か0時半頃。
気がつくと1時間以上眠っていました。
不覚。
これが兄の真意だったのでしょう。
「ちょっとだけでも寝てこい」
と言われて、素直に寝にいくような性格じゃありません。
‥まんまとしてやられました。

しかし、ありがとう。
そういうところは、もっと見習わなきゃと心底思います。



「してやられた感」でいっぱいになりながらも、とりあえず式場に戻ることに。
長男と次男は、式場の後方にあるソファーで寝ていました。
おとんはおかんの棺の前にイスを並べ、まるでベットのようにしておかんに添い寝するように寝ていました。
ほかには、毛布を膝にかけた親戚らが数名、式場のイスに腰掛けておりました。

これが通夜。
蝋燭の火と、線香を絶やすことのないようにお世話する。
この夜は、みんな交代でおかんの「火の番」をしていましたよ。

感謝。







ふぅ、、
気がつくと、かなり長い内容になってしまいましたね。
ここまで見ていただきました皆様、お見苦しいところも多数あったとは思いますが、最後まで見ていただきありがとうございます。
情けないことですが、少し疲れましたのでここらで一旦終了いたします。
この続きはまた次回。
書くことが山ほどあり、また、私自身書くことにより気持ちの整理を少しづつすることができているというのが現状です。
次回はいつになるかわかりませんが、またよければお付き合いくださいませ。
それでは。

平成18年 7月17日午後11時1分 yorupe
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by yorupe | 2006-07-17 23:01 | Θ 自伝

よる記・自伝 【参】

幼少期。

両親や兄弟とは二週間に一度ぐらいの間隔で会っておりました。
うちの両親は飲み屋をしておりました。
飲み屋と言っても‥ 馬のじゃないでスよ。(笑
今ではすっかり少なくなりましたが、スナックです。

店の定休日が日曜日。
なので、2週間に一度、日曜日の夜だけは実家で寝ておりました。
あと、兄達が夏休みの時は、平日でも彼らのヒマつぶしに家に連れて帰られてましたねぇ。

両親が深夜まで家にいないため、実家は兄達の楽園でした。
私は夜遅くまで寝かせてもらえず、きまってこの時期の定番である「稲川淳二系」の怖い話を半ば強制的に見せられておりました。

恐らく彼らは二人で見るのが怖かったのでしょう。
私が泊まらされる日は、必ずと言っていいぐらい、そういう番組が放送される日でした。
幼いながらも、私は彼らに弱味を見せるのが嫌で、恐怖する兄達を尻目にポーカーフェイスを装いながら番組を最後まで見ておりました。
内心は、オシッコちびりそうでしたが。

だからでしょうか。
私は今でもこういう番組が超苦手です。(笑






当時の記憶。
当時、エンドレスナイトという、深夜番組が放送されておりました。
司会はたしか、ばんばひろふみ&兵頭ゆき。 伝説の深夜番組ですね。

その日のエンドレスナイトは、恐怖スペシャル。
心霊写真だの心霊体験だの、それはそれは文字通り、かなりの恐怖スペシャルでした。

番組の前半は心霊写真特集。
「もう勘弁してください!」と言いそうになるほど、視聴者をジワジワ怖がらせる内容でした。
兄達も私もだんだんシャレにならないぐらい怖くなり、三人ともほぼ硬直状態。
私は、次男の膝の上でぬいぐるみのように抱えられておりました。
その、私を抱える手のひらが情けないほど汗ばんでいたのを記憶しております。

そしてCM。

全員一言も発さず、ただただテレビの画面を見ておりました。



プチ



テレビの画面が消えました。
今のテレビみたいにリモコンなんてないですよ。



‥沈黙。



次男が、自分の膝の上に座らせている私をギュゥゥと抱きしめました。





‥‥。



ブゥゥゥゥゥン‥。
沈黙の中、突如、扇風機起動。



ブゥゥゥゥゥン‥。
「首振り」で、みんなに生ぬるい風を吹きかけておりました。






鳥肌。
そして嫌な感じ。






‥ブゥゥゥゥゥゥン。








プシャ!
窓になにかぶつけられた音。
(生卵をぶつけられた音と非常に似ておりました。)

窓はかすかに振動しておりましたが、なにもついておりませんでした。



次男が泣きだしました。
長男の顔を恐る恐る見上げると、顔面蒼白。
私は、あおっぱなドローーンだったと思います。

これだけでも十分怖かったのですが、さらに隣の部屋から「コツ‥。  コツ‥。」という足音が聞こえだしました。
あきらかに床の上を靴で歩いてる音です。
アメリカン形式。


これには、さすがに私も兄もやられました。
号泣。
元気玉をつくるが如く、天井に向かって両親の帰宅をただただ祈りました。


足音はその後30分ほど続き、隣の部屋(両親の寝室)を回るようにゆっくり歩いておりました。


それからしばらくし、父親の車のエンジン音が。
気がつくと、足音は止まっており、部屋の戸を開けた両親の目にとびこんできたものは‥



鼻水まみれで泣きじゃくる次男。
その鼻水と涙を小さな頭でうけとめ、抱きかかえられるあおっぱなの私。
そして、失神寸前のやせ細った長男。


「おまえらゴルァー、いつまで起きとんのじゃぁー!」
この怒り狂う男が、なにより一番怖かったです。



この日の体験は、私の生涯でもっとも恐怖した時間でした。







25年後の現在、私はその家に住んでおります。(笑



幼少期の話でした。
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by yorupe | 2006-05-13 18:30 | Θ 自伝

よる記・自伝 【弐】

ばぁちゃん。
おかんのおかん。
ばぁちゃん、‥当時いくつぐらいだったのだろう。 70ぐらいかなぁ。

そのばぁちゃんと同居していたのは、おかんの姉。
この姉は6人姉妹の上から3つめ。 三女。
(ちなみにおかんは私と同じ、末っ子。 つまり六女。)

おかんの姉。名前はミエコさん。
私は今もそうですがこの人のことを めぇこねぇ と呼ぶ。 無論、当時から。

伯母はバツイチ。
旦那さんとは死別と聞いています。

伯母にはうちの長男と同じ歳の男の子が一人いました。
旦那さんは子供が生まれてすぐに亡くなったらしい。
今でもそうですが、詳しいことは知りません。 聞かなくてもいい事ですから。
旦那さんの死後、産まれたばかりの子供と共に実家に帰り、母(ばぁちゃん)と同居。

これだけしか知りません。 十分でしょ。


――さて。
この一家に向けおとんが放った育児ミサイル。 まぁ私ですね。(笑

この時のばぁちゃんと伯母の心境は正直どうだったんでしょう。
あまりにも理不尽な砲撃。 あて逃げ、ピンポンダッシュのたぐいですか。


皆さんの幼少の頃の記憶はいくつの頃からのものでしょう。
わかりやすく言えば「最初の記憶」は何歳の頃のものですか。

私の「最初の記憶」は、3歳ぐらいの頃。 伯母の家での日曜日。
台所でサンドイッチを作る伯母のとなりで、それをパクパク食べている記憶です。

当時、伯母は早朝から「水道局の掃除」のパートへいき、それが終わると家での内職。
毎日毎日、サンダルをつくっていたのを記憶しております。
が、日曜日はパートが休み。
この日だけは朝早くから、サンドイッチやホットドッグをよく作ってくれていました。

伯母はほんとうに優しい人でして、わが子と同じように私に接してくれていました。
ばぁちゃんは少し厳しい人だったかもしれませんが、亡くなるその瞬間までほんとうに私の事を心配してくれており、私はそんなばぁちゃんが今も昔も変わることなく大好きです。

幼少期。
この一家のもとで私は生後2ヶ月から7歳までの7年間をすごしました。



記憶している事。



――苺。

よく伯母は風呂上りに苺を食べさせてくれました。
透明のパックにはいった苺。 それを伯母が均等に4人分に分け配ります。

が、私は苺が猛烈大好きっ子。
「この中でだれが一番イチゴが好きやねんやろぅ。」
自分の立場もわきまえずこんな事を平気で言う当時の私。
「たぶん‥ ぼく。 だからやっぱり一番多く食べるべきやんなぁ。」
関西版のび太のようなへりくつで苺要求。 ほんと殺されてても文句いえませんよねぇ。

が、こんなバカな事を言ってもぜんぜん笑ってもらえるあったかい家庭でした。
余談ですが、先日5歳の娘にこれと恐ろしく酷似したセリフをあびせられました。
その瞬間、私の脳裏に過去のこの映像がフラッシュバックしておりました。 恐るべしDNA。



――息子の名前。

伯母の息子。
名前は昌也(まさや)。

伯母はとなり町にある、地元ではそこそこ有名な由緒正しき神社の神主のじいさんと大変仲がよく、お互いの家によく遊びにいってはお茶でもすすりながら世間話や人生相談など様々な話を毎度毎度しておりました。

(当時 : 伯母の息子16歳 私6歳)

そんなある日、伯母の家に遊びにきていた神主のじいさんとのいつもの会話の中で、伯母がこのじいさんになにげなく言いました。

「うちのマーくん(息子)はホンマなにやらしてもどんくさいわぁ。」
私も心の中で「あいつはホンマにどんくさい。」と相づちをうっておりました。(笑

が、伯母のこの何気ない発言で事態は思わぬ方向に。
神主のじいさんはおもむろにカバンの中をゴソゴソしだし、取り出したものは半紙と筆ペン。
そして短く一言。

「‥もう改名しまひょ。」

この発言を隣の部屋で私と共に聞いていた息子は、パーフェクトな「うそー!?」の表情で居間のほうに振り返り、その時みせた首の旋回動作は、スピード、キレ、タイミングともに完璧。
どこにだしても恥ずかしくないアホ面で、見事9.88の自己最高得点をたたきだしました。

この居間の隣の部屋はというと、伯母のいわゆる「内職部屋」であり、サンダルのパーツやそれらを作るのに使用する「足底型」の機械類などで散乱としておりました。

息子はしばらく放心状態におちいり、いつもより長く、そしていつもより大きく口をフルオープンさせること数十秒。 その姿はまさにマーライオン。 口にお湯でもいれましょうか。

しばらくし耳をすましてみると、伯母と共に真剣に名前を考え議論する神主の声が居間から内職部屋に漏れ出しており、息子もそれに気づいたのか慌てふためいている状態。

さすがに私も、
「マーくん、これやばいんちゃうん?変えられるよ名前!」とおもしろがる始末。

さすがに焦った息子は、
「いや、ちょ、ホンマやんけ! うわ、やばいやばいやばい!」
かなり動揺しておられました。
小走りで部屋から出て行こうとする息子の背中に私は、「ズボン後ろ前反対。」とそっとささやく。

「ちょっと、お、おかぁちゃん!」
言ったと同時にドアの横に置いてあった「接着ノリ」の一斗缶にけつまずき、そのまま一斗缶とともにゆっくりと私の視界から「サンダル・できあがり」と伯母の字で大きくマジックで書かれたダンボール箱の中に消えていきました。

皆の視線を独り占めにした、アクションスター。
ダンボール箱から出てきたその姿は‥

糊まみれ。 

ドロヌーバーのようでした。


神主のじいさんは筆ペンを持ち、無言で半紙に
「昌則 (まさのり) 」とだけ書き残し、帰っていきました。

昌也 改め 昌則。
糊を頭からかぶった直後の改名でした。 いまだ語り継がれる実話です。(笑




――先日。

伯母が私の家に遊びにこられました。
珈琲を飲みながら私の子供の頃の話などをして頂きました。

帰り際の言葉。

「めぇこねぇとこのおとうさん(旦那)なぁ、あれホンマは死別やなくて離婚やねん」

「いちいち言わんでええよ(笑」 それだけ言って見送りました。

知ってるよおばちゃん。
仏壇にはばぁちゃんとじぃちゃんの写真しかなかったやん。
それでも気になってたんやね。 感謝。






**************************************

子供時代の話でした。
今回はこれにて。
未定ですが次回につづく。

つか、やっぱどうなんよこれ。
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by yorupe | 2006-02-25 23:55 | Θ 自伝

よる記・自伝 【壱】

ネトname、Yoru。
本名、 ‥よる。 (どないやねん)


昭和52年2月。
当時飲食店(スナック)を経営する両親のもとに生をうける。
♂ばかり三人兄弟の三番目。 末っ子イェーイ。

家族構成。
父(59)
母(57)
長男(39)+嫁+子供×4
次男(36)+子供×1+(嫁×0)
私(29)+嫁+子供×2


生後2ヶ月でこの家族から離脱。 まぁ選択権はありませんでしたが。 バーブー。


――よる誕生からさかのぼること1年。

当時、両親はうどん屋(大衆食堂)を営んでいたらしく、経営状態はと言うと‥
超赤字。 当然我が家は貧乏ヒマなし。 だったらしい。


おとん後日談 : おとんうどん嫌いやねん。
           ↑ アホですわ。


当時このうどん屋は店舗を貸りて営業しており、その周辺には7、8件の飲食店が横一列に立ち並んでおりました。

スナック、スナック、スナック、居酒屋、スナック、うどん屋、スナック、居酒屋


おとん後日談 : 場所は大事。
           ↑ わかっとんねやんけ。


こんな場違いな感じで営業しつづけ大赤字。
当時、家賃1500円というサプライズ価格の市営住宅で一家4人細々と暮らす。

おとん29歳、おかん26歳、長男9歳、次男6歳。

が、しかし。
金はなくともおかん26歳。 おとん中田氏→Yoru汁注入。
ええ、できるかぎりオブラートに包んでみました。

私が産まれるということが判明し、「さすがにこれはあかん」てことであり金ぜーんぶつぎこんで店舗リフォーム。

スナック始めました。

‥はなっからやろうね、おとん。


おとん後日談 : やっぱスナックやで!


当時この周辺の飲み屋はというと、どこもかしこも、いわゆる「怖いおにぃさん」だらけだったらしく、気の弱いおっちゃん連中はあまり安心して酔えなかったらしい。
当然、このぷちスナック街も例外ではなく、まさにそんな状態。

そんなことを知ってか知らずか、うちのおとんはうーどんからスナッカーに転向。
もちろんそんな呼び名はありません。 あしからず。

連日に及ぶ怖いおにぃさんのご来店。
その脅威をどうやって切り抜けたのかは今だ我が家の謎である。




このスナックは私が22歳の時に閉店。
最後までおとんの店の入り口には「暴○団お断りのお店」と書かれたでかい看板が立てられておりました。

と、そんなスナックでした。


そんな両親の元へ生れ落ちた赤子の私。
が当時、この「お断り」看板効果で、ミラクルフィーバーの連日大入り。

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金に縁のなかった男のもとへ連日聖徳太子がムハァ-と降臨。

1970年代。 時代は高度成長期。
店は大繁盛。 猫の手も借りたい状況。
無論、おかんの存在はこのスナックにとって‥ と言うよりおとんにとってあまりにも大きく(笑)、もう彼にとって育児なんてもってのほか。
ほんと勘弁してください という状態だったのでしょう。

苦悩するおとん。
悩む。悩む。また悩む。
逃避。逃避。現実逃避。
でてない、でてない、おかんのお腹。
気のせい、気のせい、わかりません。

そしておとんのだした結論が‥

育児ミサイル。


「対象確認。標的ロックオン! カウントはいります。 3 ・ 2 ・ 1 ・ GOぉぉ!」

バシューーーーーーーーーーーーーーーーーン
DOOOOUUUUUUUUUUNN!!!!!!!!!!!!

命中。
おかんのおかん。つまりおばぁに直撃。


――こうして私は生後2ヶ月で家族から離脱。7歳までおばぁさまと暮らす事に。



よる記・自伝。今回はこのへんで。
次回未定(笑

つづく。
つか、どうなんよこれ。
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by yorupe | 2006-02-24 01:16 | Θ 自伝